子どもの笑顔が育ちまち。大田笑市 栃木県大田原市

オリジナルストーリー

大田原の笑味(しょうみ)

Full ver.

大田原の笑味

スマイル 譲二 じょうじ 。笑顔が素敵だからと、そんなニックネームをつけられた俺の人生は変わった。

30年以上続く西麻布の人気イタリアン「ピアノ」のシェフとして働いてきた俺は、3年前、人気グルメ番組に出演したことがきっかけで、“イケメンイタリアンシェフ スマイル譲二”として持ち上げられて、メディア人気も結構出てしまった。番組内で創作料理を披露し、人気タレントに振る舞う。料理を作りながら俺が笑顔を作ると、司会者が「出たー!スマイル譲二」と叫ぶ。40歳を超えた俺自身も最初は照れたが、女性客がキャーと叫ぶその反応が次第に心地よくなった。俺がテレビに露出したことで、店の客が増えたことは確かだ。だけど、10人以上のシェフが働き、支店も構えているこの店で、メディアでちやほやされる俺を疎ましく思うやつも増えた。

スマイル譲二として人気が出てからは、取材やメディア出演、本の出版など忙しい日々を送り、ピアノのシェフとして店に出る時間は減っていた。オーナーも「それでいいから」と言ってくれた。だけど俺が出演していたグルメ番組の視聴率が良かったのは一年ほど。落ちる時は早い。数字が落ち始めて半年で打ち切りが決定。俺を取り上げる雑誌やテレビも一気に減っていった。そうなると再びピアノで働く時間が増えた。だけどその時にはすでに遅かった。後輩のシェフがこの二年の間に力をつけていたからだ。人気シェフとなって浮かれていた自分のことを心の中でねたみ続けながらも腕を磨き続けた後輩たち。もう俺の居場所はなかった。そんな空気を読んだオーナーがある時言ってきた。
「今度、横浜で支店作るから、そこのチーフ、やってみないか?」。
本店でずっとやってきた自分にとってそれは「左遷」を意味した。45歳を超えて店から出された戦力外通告。「お前の力は必要だ」と言ってくれてるがその優しさには嘘があることも気づいていた。だから余計に虚しくなった。

これまでにも店を辞めて自分の店を出すべきじゃないかと思ったこともあった。スポンサーになるよと何度も言われたが、「元人気シェフ」となった今、こんな自分にお金を出してくれるスポンサーもいないだろうし勇気も出ない。自分が独り身だったらすぐに辞めていただろう。だけど俺には妻と、3歳の息子がいる。
何も言わなくても妻は気づく。感じる。店からの戦力外通告を告げられないまま数日経った俺に、妻の 千尋 ちひろ が言った。
「ねえ、私の実家の大田原で店、出さない?自分の店」。
千尋は元々ピアノでバイトで働いていたウェイトレスだった。大学に通いながら働いていた千尋を、シェフだった俺が口説いたことになる。千尋が22歳、俺が33歳の時に結婚した。千尋は専業主婦となり、俺の料理の一番のファンでいてくれた。
「ジョウちゃんの料理、私が一番わかってるから」。

結婚してから子供を早く作りたかったがうまくはいかなかった。千尋の二度の流産を経て、不妊治療を行うことに決めた。正直、俺はそんなに子供を欲しいと思っていなかったが、千尋が強く望んだ。その甲斐あって、息子を授かった。息子が産まれるちょっと前から、俺はメディアでの露出が増えて、スマイル譲二と言われたが、スマイルが出なくなるくらいのスケジュールに忙殺された。せっかく息子を授かったのに、息子と会えるのは寝顔のみの日が続き、気づくと起きている息子と一週間以上、顔を合わせないこともあった。
人気シェフとしての出演料、取材費なども結構入った。家族の為に稼いでいるから、それでいいのだと思うことにした。妻も何も言わなかったし、いつも「無理しないでね」と心配してくれた。
息子、桃太。桃から生まれたような丸っこさとピンクの肌。千尋が考えた名前だった。桃太が喘息だと知ったのは、二歳になってから。寝ている時に咳が多いなと思ってはいたが、病院で診断されて、治療に通っていることすら夫婦で話し合う時間がなかった。

千尋は気づくのが早い。メディア露出が減り、店での立場も悪くなっていることにも気づいていたのだ。千尋は俺が語らずとも、背中を読める女性だった。俺の背中を見て、落ち込んでいる日は家であったかいお茶を入れてくれた。支店行きをオーナーに伝えられた日から、千尋は気づいていた。俺に何が起きているかも。だから千尋は言ったんだ。
「ねえ、大田原で店でも出さない?自分の店」。
千尋の実家、栃木県大田原市。山と川に囲まれた自然が売りの、自然しか売りのない町。結婚してから何度か行ったことはある。千尋の実家は、大田原市で農家をやっていた。千尋の父の兄にあたるおじさんは大田原で中華定食屋を営んでいた。奥さんに先立たれ、一人息子も東京に出て、70歳を超えたおじさんは店を閉じることを考えているのだという。それを聞いた千尋は思ったのだ。
「失くしてしまうのなら、その店を夫に売ってもらえないか」と。

ピアノを辞めることをオーナーに伝えた時、「今まで子供と向き合ってあげられる時間もなかったし、東京に飽きたんで、栃木県でしばらく、ゆっくりします」と格好をつけた。メディアの露出が減って人気が落ちてきたからじゃない。自分が調子乗っている間に後輩が力をつけて、戻ってきたときには自分の居場所がなくなっていたからじゃない。そう思われたくなくて正当化したつもりだったが、オーナーはわかってはずだ。
「確かにそうだな。ここ何年か忙しすぎたもんな」と少し嬉しそうだった。気を遣ってそこそこの退職金を払ってくれたので、その金は大田原の店の改装費に使うことにした。
大田原での生活が始まった。

妻、千尋の実家は大田原の、カーナビも不安になりそうな山の奥ある。目の前に似たような畑が東京ドーム何十個分も広がり、スマホの電波も時折悪くなる。そんな家から、自分の新しい職場となる店までは車で20分。10分に一回、人が通ればいいような通りにその店はあった。「笑味」。「しょうみ」と読む。妻のおじさん、今年70歳になった健一さんが30代の時に始めた店だ。田舎町によくある中華定食屋で、中華と言いながらもサバの味噌煮なんかも置いてある。人気は麻婆豆腐。人気どころかほぼ全員がそれを食べるらしい。

健一さんは、小太りで笑うと顔がくしゃっと恵比寿天のような笑顔を放つ。言葉の節々に地元の言葉のイントネーションが出るのが人柄の良さを強めている。俺と初めて会った時は「いやぁ、石原裕次郎が生き返ったと思ったべや」と顔をクシャっとさせて笑った。そんなジョークを交えながらお客と会話するので、地元で愛されていた。昨年、奥さんに先立たれた。息子さんは東京で一流の代理店に勤めている。子供も二人いて、マンションを買ったことをきっかけに、健一さんに「東京で一緒に暮らさないか」と言ってきたのだ。

ずっと暮らしてきた地元を離れることを拒んだが、孫の面倒を見ながらこれからの人生を生きることも悪くないと思い始め、70歳から東京に移り住むことにした。動脈硬化もあるので、息子さんは健康も心配して、東京に呼んだのだ。

妻が健一さんに「いくらで譲ってくれるのか」と聞いた時に、「金なんかいんねぇよ」と言ったらしい。この場所で名前が変わっても飲食店が続くことが嬉しいんだと。だから無料で使ってほしいと。

正直、俺は妻にも言ってなかったが大田原にいるのは二年と決めていた。二年間、ここで店を構えて多少ゆっくりと過ごしながらも、その間に東京でまた新しい店を探す。ピアノよりもいい条件で、俺を雇ってくれる店を。ピアノのみんなへのちょっとした復讐心も残っていたからだ。

大田原に来て最初の二ヶ月は、健一さんの店「笑味」を手伝うことにした。健一さんが東京に発つまでの二ヶ月。この店に来るお客の雰囲気などを掴みたかったからという理由と、0円で店を譲ってくれるという気持ちに何か応えたくて、東京で人気シェフだった俺が二ヶ月間店を手伝うことは、十分それに値するだろうと思ったからだ。健一さんはキッチンに立つ俺に「もう、好きなメニュー作ってかまねかんね。いや〜、ジョウちゃんが作った料理食えるなんて聞いたら、もう行列だ、行列」と言った。

確かに俺が店に出るようになって一週間、この街のすべての人が来たんじゃないかと思うほど行列になった。テレビで活躍した「スマイル譲二」の名前はこの大田原ではまだ通用したのだ。健一さんが、俺に「好きなメニューを作って出してかまねぇ」と言ったので、大田原自慢の白美人ネギに紫アスパラを使ったパスタを考案し、それをメインとして出した。みんなそれを食べて、「うんめぇな」「東京の料理は違あなぁ」と言って喜んで帰った。

二ヶ月後に健一さんはこの店を去り、東京に行く。そうしたら店を改装して、田舎町のこだわりのイタリアン風に作り変え「キッチンジョージ」という名前で開店しようと心の中で決めていた。大田原の野菜はシェフとしての俺にはとても魅力的。ここでうまいメニューを作ればきっと東京のメディアも取材に来るはずだとも考えた。

この「笑味」の一番人気のメニューは。「笑麻婆豆腐」。「しょうまあぼうどうふ」と読むらしい。なぜか最初に「笑」をつける。大田原自慢の唐辛子をふんだんに使った麻婆豆腐は確かにうまかった。田舎町の定食屋にある麻婆豆腐と言えばそれまでなのだが、それ以上の味。自分なりにそれは大田原の唐辛子が一番の勝因なのだろうと分析した。ピリっと辛いのだけど辛すぎない。日本人の舌に合う唐辛子。それが大田原の唐辛子だと思った。この大田原には唐辛子を使った料理が沢山あった。唐辛子のラーメン、から揚げはもちろん、唐辛子カレーに唐辛子の餃子の皮、唐辛子のジェラートに唐辛子のハニーなんてものまであった。

大田原の唐辛子に気づいてから、俺は自分なりに数年間のあらすじを作った。人気のスマイル譲二は、一時期あえて東京を離れて栃木県大田原に行った。大田原に行ったのはシェフとしてこの唐辛子に惚れたから。二年の間にこの唐辛子を使いこなしたイタリアンを開発。そのために二年間大田原に行ったのだ。そうなれば、都落ちしたわけじゃない。という自分を守るあらすじ。だからこそ、唐辛子を使った料理を作りキッチンジョージのメインメニューにしようと考えた。唐辛子を使ったパスタとピザあたりから狙っていこうと。

俺が店に出て一週間も過ぎると、さすがに行列はなくなった。この街の人すべてが俺のパスタを食べたと言っても過言ではなかったからだと言い聞かせた。二週間経つと、俺のパスタをオーダーする人がほぼいなくなり、みんなが健一さんの作る麻婆豆腐を頼んだ。最初の一週間は、キッチンで動いていたのはほとんど俺で、健一さんはそんな俺を嬉しそうに見つめていた。だが二週間経ち、俺の出番はあまりなくなった。ほとんどの客が麻婆豆腐をメインにいくつかおかずを頼む。

地元の高校生、農協で働く人たち、農家の人たち、お爺ちゃんやおばあちゃんまで、来る人のほとんどは麻婆豆腐。あの行列は何だったのか?幻だったのか?

俺は健一さんの麻婆豆腐の作り方をずっと見ていた。食材から調味料まで完璧に頭に入れた。「麻婆、手伝いましょうか?」と言うと「あぁ、いいよ。それ、俺やっから。休んでな」と言った。

健一さんは「店にせがれさん、連れてこぉ」と言ってくれた。以前なら職場に子供を連れてくことなんて考えられなかったが、健一さんが会いたいと言ったので、連れて行った。人見知りだと思ってた息子、桃太も健一さんがすぐに遊び相手になった。店から歩いて10分のところに鮎釣りができる川があった。桃太はそこをとても気に入り、それから千尋は毎日桃太を店に連れてきては3時間ほど置いて帰り、桃太は店に来た人や健一さんと遊んだ。

大田原に来てから一ヶ月だろうか。桃太の咳が止まっていることに気づいた。そして毎日店に来ていたことで、桃太と会っている時間の面積が増えた。健一さんと遊んでいる最中にも俺の方に走ってきて俺の足に抱きつく。前だったらこんなことはなかった。東京にいた時は、たまに起きてる桃太の笑い顔だけを求めていた。カメラを向けて笑い顔を撮る。笑顔を見たら父親になってる気がした。笑顔を撮影しようとすればするほど桃太は笑顔を向けてくれなかった。桃太が店に毎日来るようになってから、桃太の笑い顔、笑い声だけじゃなく、泣き顔、スネる顔、怒る顔、いろんな顔を見るようになった。人は泣いて、スネて怒るから、また笑う。そんなことにも気づかされた。

大田原のこの店に来てから二ヶ月が経った。

店では自分が作るイタリアンのメニューを頼む人はほぼいない。みんな健一さんの料理ばかり。「田舎のやつらの舌は俺の料理の味をわからないんだな」と言い聞かせ始めた自分がいた。健一さんは食べ終わったお客さんとよく話す。どんな話をしたかと言えば、覚えていないくらいのどうでもいい話だ。とにかくよく笑って話している。そこに愚痴や悪口はない。みんな笑って帰っていく。

ある日のこと。ついに自分が腕を振るう時が来た。健一さんが桃太を連れて川に遊びに行くことになった。「ちっと行ってくっから。もし中華のお客さん来たら、呼ばって」と。午後3時過ぎ。ほぼほぼ客が来ない時間。しかし、健一さんが桃太を連れて出ていき、しばらくするとお客さんが来た。この店に長年通っているお客、蕎麦屋の店長、大野寛太さん。寛太さんは俺と同じ年。ずっとこの街で育ち、今は父親のやっていた蕎麦屋をやっている。昔から食べているここの麻婆豆腐が好きで、週に一度は必ず店の隙を見て食べにくる。坊主頭でタオル鉢巻という蕎麦屋でのスタイルのまま、テーブルに座った。

「麻婆ね」と。俺は自分で作ることにした。健一さんを呼びに行かずに。もう完璧にレシピは頭に入っている。

初めてここのキッチンで麻婆豆腐を作った。出来上がったものを味見すると、自分で自分を誉めまくりたい出来上がり。これを出したら健一さんの麻婆豆腐が可哀相なことになるかもとさえ思った。俺は寛太さんに傑作、麻婆豆腐を出した。そして寛太さんは食べた。無言で食べた。食べきった。寛太さんはつまようじで歯を掃除しながら言った。

「おじさんは?」
「今、うちの息子と川に行ってて」
「もうちっとでおじさんの麻婆食えなくなんだな」

俺の作った麻婆豆腐の感想を一言も言わないことに腹が立ち始めたが、その気持ちを隠して言った。
「俺がやる店でも麻婆、やろうかなと思ってるんですよ」
すると寛太さんはまず一言言った。
「申し訳ないこと言っていいけ?」
申し訳ないことという言葉がピンと来なかった。だけどそれが俺の作った麻婆豆腐のダメ出しであることにすぐに気づかされる。

「健一さんの作る麻婆豆腐、店の客ごとに味がちっと違あんだよね。微妙にね」
と言った。味が違う?客ごとに?

「健一さんはこの店に来る人とよぉぐ話すんだ。最近の俺らの生活のこと、家族のこと、気づくと何でも話してんだぁ。この店に来る客の健康のこともさりげなく聞いて、よぉぐわかってんだ。だがらぁ、その人の好みとか体調見ながらね、とんがらしの量、微妙に変えてね、一人ずつ味を変えてくれてんだ。だがらぁ、他の人と来て、その人の麻婆豆腐一口食べっと、ちぃっとね、ちぃっとだけ味が違あんだ。俺がそれに気づいたのも、最近なんだけんども。俺も蕎麦屋やってっぺや?健一さんはすげえよ。一人ずつの世界に一品の麻婆豆腐を作ってる。だがらここに来た客はみんな笑って店出ていけんだんべな」

その話を聞いて、寛太さんの顔を見れなくなった。自分が今この店でシェフをやっている理由。前に働いてた店の仲間にいつか復讐してやりたいから。また東京で脚光を浴びたいから。もう一度人気のシェフになりたいから。自分のため。

俺のパスタが最初の一週間で飽きられた理由がわかった。それは俺がみんなの為に作ってないから。自分の為に作っていたからだ。その時気づいた。
世の中には星のついた店とシェフが沢山いる。だけど星なんか貰ってなくたって、人の記憶に残り続ける最高のシェフもきっと日本には沢山いる。健一さんのように。

すると、桃太を連れた健一さんが帰ってきた。寛太さんは健一さんと目が合うと「あのお兄ちゃんの麻婆もうまかったよ」そう言って帰っていった。俺の目が涙でちょっと膨らんでいることに気づいた桃太は俺に抱きついてきた。俺は桃太を抱きしめた。ギュっと。
俺は桃太を抱きしめながら健一さんに言ったんだ。

「健一さん!この店に来るお客さんのこと、出来る限り教えてもらっていいですか?」
健一さんは笑顔で「あだりめだんべ」と答えた。

俺は決めた。健一さんがいなくなった後も「笑味」という名前で店を続けよう。
そして今度は、本当のスマイルを届けられるスマイル譲二になりたいと。

おわり

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