金燈籠(かなどうろう)│スマホで観てある紀「城下町大田原」の史跡

金燈籠(かなどうろう)

文政2年(1819年)、大田原宿の有志38人により防火や町内安全、旅人の夜道の無事を祈願し上町十字路に建てられたものです。初代金灯籠は、太平洋戦争末期の「金属回収運動」により応召され(指定の場所に集まること)、二代目は、三斗小屋宿から譲り受けましたが、昭和53年に黒磯市に返却されました。三代目は、昭和54年、地元商店街有志により初代そっくりに再現。初代の心意気と意志を継ぎ、市街地の中心にあって通行者を見守っています。

2代目金燈籠

三斗小屋温泉から寄贈された2代目金燈籠
昭和30年

昭和33年ごろの商工祭

商工祭・花吹雪赤穂47士行列
昭和33年11月15~18日

市制5周年記念

市制5周年記念・金燈籠
昭和34年11月1~5日

昭和32年のさくらまつり

さくらまつりの出し物「赤穂浪士」

昭和32年4月

昭和59年の屋台まつり

市制施行30周年記念屋台まつり

昭和59年

昭和59年与一まつり

第4回大田原ふるさと祭りを「与一まつり」と名称変更して実施しました。

昭和59年8月

金燈籠(かなどうろう)での開催イベントの今昔

屋台まつり

毎年4月の第3土・日曜日に開催
江戸時代、大田原神社の例大祭で大田原藩の御輿を奉納した7町内の当番町が引き回したのが起源といわれています。花鳥・唐獅子などが精巧な技法で彫りこまれた屋台は見ごたえ十分。9台の屋台が金燈籠で行うぶっつけ(お囃子の競演)は、祭りのクライマックスといえるでしょう。

与一まつり

毎年8月の第1金・土曜日に開催
大田原の夏を彩る代表的なイベント。昼は与一武者行列、子どもみこしなど歩行者天国で賑わいます。 約400人の武者行列は、甲冑姿の那須与一公をはじめとする勇壮な武将・子供武者などが市内をパレードし、歴史絵巻を再現。出陣式では三献儀福原餅つき唄が披露され、つきあげられた餅が与一公に献上されます。

サウンドクロスin大田原

10月開催
気軽に音楽に触れる事が出来る街中ならではと、大田原中心市街地にて18組のアーティストが参加。トコトコ大田原会場・金燈籠ポケット公園会場・山の手ガレージ会場の3会場にて音楽で人々の輪を広げるコンサートを開催しました。

金燈籠(かなどうろう)での開催イベントをYou Tubeでみる

金燈籠(かなどうろう)での開催イベント

 

大田原城の略年譜

 天文12年(1543)、大田原資清、龍体山に大田原城を築く。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉、奥州遠征の途上、大田原城に滞在する。
 慶長 5 年(1600)、大田原晴清・増清兄弟、那須資景・服部半蔵らとともに会津上杉氏に備えて大田原城に籠城する(大田原城の大改修)。
 寛永10年(1633)、幕府、大田原城に米一千石を預け置く。
 宝暦 7 年(1757)、大田原城下にて火災が起こり、薬師堂が焼失する。
 文政 8 年(1825)、大田原城下にて大火が起こり、大田原城が類焼する。
 嘉永 3 年(1850)、藩校時習館を創設。
 万延 2 年(1861)、大田原城大火。全町域の三分の二を焼失する。
 慶応 4 年(1868)、戊辰戦争。会津藩兵が大田原城を襲撃し、城下を焼く。
 明治 2 年(1869)、版籍奉還。大田原勝清、大田原藩知事に任じられる。
 明治 4 年(1871)、廃藩置県。大田原藩、大田原県となる。
 明治 5 年(1872)、大田原城が兵部省に引き渡され、建物は取り壊される。

龍体山大田原城之図

光真寺蔵/昭和16年佐奈田翠峰筆

大田原城図

当館蔵/明治35年

奥州道中分間延絵図(五街道其外分間延絵図並見取絵図のうち)第2巻(部分)

※資料提供 大田原市

↑ PAGE TOP